欠片 2001.3 |
心身共に色々あったので、やすらぎを求めてネット上を彷徨っておりました。 本も読みました。一般出版、同人誌の別無く。 そうして、思ったことや感じたことのうち、半端な部分―― 「どのページにも、ちょっとなー」という欠片を此処にまとめていこうと思います。 当然整理もできてない部分です。そもそも整理整頓は苦手だし… なので、扉を付けました。 |
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どんな煩悩なんだ?とお迷いの方は以下の駄文を参考にどうぞ。 こちらは3月分です。 もう一度最初の「欠片」が読みたいと思われた奇特な方、こちらへどうぞ。 |
欠片6 2001.3.8 ☆ サイト「簾【すだれ】とワニの隙間」で、nari様が『シルバーウルフ旅行記』連載中。 第11話にあったフレーズ。 >欲しいものは、今この楽しい時間だけ。それで十分だった。 一番贅沢な時の過ごし方〜ケチな私には一番難しいかも…… ☆ 昨日は、たまたまキャンディロロのホームページを訪ねて、ここ10年間の写真を見た。 若いときは、普通の兄ちゃんだけど、年とともにだんだんいい男になっていくな〜と楽しく見た。 で、キャンディロロがいい男になっていく過程は、そのまんま彼が自分本来の姿を見つけていく過程じゃないかなーと思った。 自分を正しく認識し、それを最もベストな形でアピールするために正しい努力をする。とてもとても難しいことだが。 それが出来る知性と能力、気力等を持てた。試練もあったろうけど、彼の努力を叩きつぶすものではなかった。 画面のこちらで見ている限りでは、過ぎていく時さえ味方に付けているようだ。 その点で、彼はとっても《幸福》な人間だろう。 そんな彼を見ていると見る者も幸福を感じるのではないか。 ☆ アイススケートという後に形を残さないものに全霊を賭ける潔さもまた良し。 ――ここで上記のフレーズに帰るわけだ。 後に残らない、という点では、宇崎竜童のライブもそうだったな。と、しみじみ。 彼の、彼らのエネルギー全てが、その場で消費され尽くしていた。あの蕩尽! 贅沢の極みのあの時をもう一度見られたら…… どーして宇崎さんやダウンタウンブギウギバンドのライブの記録は出てこないのよ! 売り出されたら、DVDだって即買うのにぃ。 |
欠片6-2 2001.3.17 ☆ 伊勢丹美術館で「マリリン・モンロー写真展」を見た。 写真の量がすごかった。50年近く前に撮られたものなのに、全然古臭くない。 特にウォータープリントのは、よだれが出そうになった。 なじみの写真家だからか、リラックスしたいい写真がいっぱい。 で、どの写真でも、見事にポーズを取っている。 「S字形になってるから美しいのよ」karinさんが教えてくれました。 なるほど。体全体がカメラ目線。 全身が「私はここにいるのよ」と訴えている。と感じた。 マリリンの生い立ちを知っているせいかもしれないけど。 写真に添えられたマリリンの言葉――― 「みんなが私を求めるのは、才能があるとかそういうことじゃない。私が誰にも属したことはないからよ」 納得。結婚しようが契約しようが、マリリンは誰のものでもなかったわけだ。 誰かの物になって、それで安心とは思えなかったのだろうな。 そういうのって、あのころの女の生き方としては、きついだろう。 まして、彼女には何の後ろ盾もなかったんだし。親の七光りとかね。 で、誰の物でもないということは、全ての人に開かれているということでもある。 大統領だろうが一介のGIだろうが、マリリンの前では平等なわけだ。 それは―――求めずには、いられないだろうなぁ。 ☆ キャンディロロの時も思ったのだけど、マリリンも「生きている喜び」「人である素晴らしさ」ってビームをびしばし放射している。亀井俊介の言うとおり、マリリンは、女神だとしても地上の女神だ。彼女の実像を思うと信じられないくらいだ。 その落差が、痛ましい。なぜそんな乖離が生じたんだろう。 ☆ 川本三郎が「マリリンはセーターガール扱いされているけれど」と前置きして言っていたなぁ。 「有名な地下鉄の排気口からの風にスカートを吹き上げられる場面も、 別に男を誘惑するためにしているのではなく、熱帯夜のニューヨークで『こうすれば涼しいのよ』と言ってるだけだ」そうです。 ☆ そういえば映画『マリリンとアインシュタイン』では、ちょうどそのシーンの撮影場面から始まって、静かに怒り狂うディマジオがマリリンを追っていくんだった。 テレサ・ラッセルがマリリン役で、顔立ちは全然違うのに、すごくマリリンらしくて、テレサ・ラッセルって上手いなあと思った。 ☆ 『マリリンとアインシュタイン』はニコラス・ローグが監督したちょっとマイナーな映画です。 SFちっくで、不思議な味があって、私は結構好きでしたね。 詳しい説明は、こちらに↓あります。 http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/9512/1987/05.htm http://www.takara-univ.ac.jp/movie/aiueo/ma/kakudai/0225.html しかし、監督誰だっけと思って検索かけたら、ちゃんと出てきた。インターネットの有り難さ〜♪ 鈴木志保さん(漫画家)の講演会記録の中にも出ていた。 http://eca.web.waseda.ac.jp/eca-L3-legrandjeu/Suzuki.html |
欠片7 2001.3.9 ☆ 『ARMS』を立ち読みするために「サンデー毎日」を買っている最近の私…… だ、だって、今時珍しい鷹揚な本屋さんなのに。 何にも買わないのは気が引けるじゃないですかー。 「サンデー毎日」なら、ウチの親父が引き取ってくれるしさ。 ☆ それはともかくとして――― 『ARMS』に関しては「簾【すだれ】とワニの隙間」のmari様がとっても熱くなっているので、私の言いたいことはぜーんぶ言ってくれてる(笑) >ブラックはどう転んでも生き残れない…ですよね(涙)? >だったらせめて最期は、彼の信念を表現してほしい で、思わず本音で、バイオレット×隼人と言ったら追求された。 >バイオレット×隼人って…逆じゃない… >んですね? それ、一体どうなるんですか…!? ……人様の掲示板で書き連ねるのはちょっと……なので。 こっちで考察することにした。 ☆ その前に、ちょっと寄り道。 たきお様とこの掲示板で、やおいとえっちについてのレクチャーを受けた(笑) 当然、京極絡みである。 「どうしてあなたはえっちシーン見ると気持ちがいいの?」 >なぜそこに肉体が入るのか。言葉だけでは駄目なのか。 言葉だけではそれが実感できないんであろうか。 じゃあ、なぜ肉体を介すると実感できる(ような気がする)んだろうか。 R持院様の『身体を繋ぐことにはそれ以上の意味もそれ以下の意味もない』という言葉にももっともだーと思ってしまう。確かに、最終段階までいかなくても、気持ちよさとかやすらぎとかはあるもんねぇ。 基本的には、「えっちがなくちゃ絶対ヤ」ではない。 作品として見た場合、そのストーリーにそぐわないえっちをいきなり入れられると興が削がれるしね。 内容にぴったり合ったえっちなら、読み手としては嬉しい。いわゆるエロな作品を見る幸福というのも、ここに入るかな。エロという目的に向かって全力!ってものなら、私は好きだ! しかし、なぜ幸福なのか?なぜ満足できるのか?と追求されると〜 もしかして、私も「えっちまでいってこそ」という世間のテーゼに知らぬ間に染まっているのかなぁ。 「抱かれたら(抱いたら)安心できるから」ってのが、まず浮かんだんだけど。 「なぜ」抱かれたら安心できるかを知りたいのじゃと、きっちりぺけを貰ったので、も少し掘ってみた。 「この人は自分を好きだという。ならば自分(の心身)に危害を加えたりしないだろう」というストレートな安心。 「この人は自分を好きだという。つまり自分(の心身)の在り方を肯定してくれる。自分が、こんな風にここにいていいと言ってくれる」だから安心できる。 と進めていったのですが、何だか、昨今流行りの心理学の絵解きのようですね。……赤面。 でも、この手のサインをくれるからこそ、関口は京極堂から離れられない。逆もまた真なり。 >「京極堂は関口を翻弄するのが楽しい」 つー中尊寺様の解釈がいっとうしっくりくる。 どんな風にかと言うと、めいっぱい自分を見て、自分の一言どころか、気配にすら敏感に反応する相手がおもしろくない、訳がない、愛しくない訳がないもの。 そんな風に自分を見てくれる、つまり必要とされているという点で、「抱く」方も《安心》できるんじゃないか。 それで、1対1の関係だけなら、うっとおしくなることもあるだろうけど。京極ワールドでは、木場や榎木津他が絡んで拡散してくれるから、適度な風通しもあっていいなと。 今読みかけている鷲田清一の『まなざしの記憶』に、以下のような記述がある。 《恋愛においてひとはおそらく、物心ついてはじめてほかのひとに強くその存在をもとめられる。 「あなたが生きていてくれてよかった」と、その存在を祝福される》 うーん、男女の恋愛もやおいも、同じかなぁ。 ………ここらがわたしの限界。宿題にしてもらったまま棚上げしてるんだけど。 ☆ で、バイオレット×隼人に戻る。 まず、バイオレットに性体験があるかどうかは問わないことにしよう。 あるとしたって、恋愛から進んだオーソドックスなものとは到底思えないし。 自分に女性としての機能があるか、女性としての感情が持てるか試してみるためのものではないか。 (今回「子孫を残せない」と明言しているし。これって妊娠・出産を試してみたんじゃなくて、医学的に調べたような気がする) となると、初めて好意を持って触れる相手を知りたいと切実に思うだろう。「してもらう」に甘んじてはいまい。 隼人は……あの調子じゃ全くの未経験だろうし。 バイオレットに強気に出られて、逆らえるとは思えない。悪いけどね。 構造面はおいといて、バイオレット×隼人だろうと判断する次第である。 ☆ 何だか連想ゲーム。生殖能力を持たない「異端」て―――花郁悠紀子さんの『フェネラ』も、そうだったなぁ。最後、異世界へ行ってしまうかと思った彼女を引き止めたのは、恋人じゃなかった。同じ痛みを抱えた同僚だった、はず。 |
欠片7-2 2001.3.13 ☆ たきお様とこで受けたレクチャーの続き。 「なぜえっちが必要なのか」「そもそも、どうしてえっちは特別なのか」という方向に進んだ。 中尊寺様曰く。「関口はえっち=最高の愛情というお約束の信者だから」 確かに。 関口はつまり、信じたいわけだ。周り=世間が掲げている「えっちは特別」というお約束を。 なぜならお約束を信じることによって、自分も「世間の1人」となれるから? じゃ「特別感」の正体って、文化的刷り込みってヤツだろうか? いかに戦前派とはいえ、ずっと京極たちとずっといて、それでどうして関口の思いこみは解除されないのか、考え込んでしまったのです。 とはいえ、(私がイメージする「関口」は原作とたきお様、中尊寺様の関口) 関口って、小インテリの出でしたよね。少なくとも華族や下町の子じゃない。 そういうとこって、往々にしてモラルに厳格で、言葉=理屈ですべてを律しようとするんだ。 でも、そんじゃその言葉によるルールが徹底しているかというと、そうじゃなくて、けっこう裏があったりする。 大人は平気で使い分けるけど、子どもは必死で言葉の表の意味についていこうとして。 でも、そこには嘘があるってのも、おぼろに感じてる。だから言葉を信じきれない。一方では、与えられなかった肌のぬくもりってのも欲しい。この両者が絡まって、「えっちは特別」幻想にしがみつくのかも。 だって、関口のえっちって、性的欲求があってというより、いわゆる肌寂しさから来ているような感じがする。 えっと、ボノボチンパンジーの世界。えっちでコミュニケーションをとって、社会の緊張を和らげるってのを連想する。 んで、そういう部分が関口の根っこなもので、京極も「しゃーない」と合わせてる。 でもムカつくのも確かなので、時々いじめたり、木場にぶつけたりしてる。 今気がついたけど、木場って言葉をすごく素直にとる人なんじゃあ…… いや言葉を「信奉する」んじゃなくて、言葉は言葉として正確に使おう、受け取ろうとする。 だから、説明がないと苛立つんじゃ……それで京極は木場相手だと楽なのか。 ☆ また脇道。 水野英子の『ファイヤー!』の中で、セックスの後の恋人同士の会話として、 「どうして、僕たちずっと一つでいられないんだろう」ってのがあった。 あのころは、確かに切実な問いだったのだけど、今になれば分かる。 私たちの御先祖が、両性生殖を選んだからだ(笑)。 アメーバの安定を捨てて、変化をめざした。その時点で、私たちは個々の肉体を持ち、他とは隔てられたのだ。どうしようもない。 いまさらアメーバに戻るわけにもいかないのだから。個と個の距離を嘆くのでなく、それはそういうものであるとして生きていくしかない。 |
欠片8 2001.3.9 ☆ 頭がこんがらがってきたので、自分が書きたい副×シャンに帰って考えてみることにした。 まず「抱く」方の論理から。 ウチの副の場合ははっきりしている方かな。 シャンクスを独占していたい。これだろう。他に人がいなけりゃ、「見ているだけで良い」なんて言って(某掲示板での代理発言)、シャンクスに蹴りを入れられそうだし。えっちの間は、他の人間は介入できないし。ロマンチストでもあるから、えっち=愛の証なんてー信じていそうだ。 必然焼き餅焼きであろう。体もだろうけど、シャンクスの気持ちがよそへ向くなんて考えるだけで……だろう。だから、副はシャンクスの隣に立っていても、常に「少し不幸」だ。喪うことに怯えている。 多分、シャンクスに必要とされなくなったら、自分がこの船にいる意味もなくなるとも思っている。 で、シャンクスはと言うと、なんとも大雑把なことにえっち全般「気持ちいいこと」で括ってしまってる。 決して決して、えっち=愛の証なんて柄じゃない。気持ちいいことなら、何でも好きなんだな。 ―――自分に正直とも言えるか。いや、もちろん誰が相手でもいいわけじゃないけど。 「抱かせてやる」って思い上がりや、「あいつがしたがるから」なんて被害者意識は無いわね。 今、幸せなら良いわけだ。で、その「全開の幸せ」が、また副を惹きつける。 ……なんか、「抱かれる」方の論理にならんわね。少なくとも、BLじゃないなぁ。うーん。 結局「抱く」「抱かれる」じゃなくて、彼にとっては、「要するにえっち」ってことかなぁ。 つまり、「いっしょにするコト」で、一方的なものじゃない。したけりゃするし、したくなけりゃしない。 う…ん、「断ったら嫌われる」とか「させてあげなきゃ気の毒」とかは、これっぽっちもないわな。 ☆ 人を待ってる間、読んだ岡田斗司夫の『人生テスト』 「能力が高いから幸せ、と限らない」「カリスマとは器の広い人、悪く言うと欲張りな人」というフレーズが♪ ☆ 誰のエッセイだったか、犬は、「この人は自分にご飯をくれるから自分の主人だ」と思い、 猫は、「この人は自分にご飯をくれるんだから自分が主人だ」と思うってのもあったな。わはは♪ んで、ウチの猫は、見かけ副で、性格シャンクスだったんだなぁ。どっぷりハマった理由は、そこんとこにもあったかも。 |
欠片9 2001.3.26 ☆ こないだから《つなぐ者》としてのネクスト・ジェネレーションについて考えていた。 タイミング良く『ARMS』16巻発売。クローンである「ネクスト」登場。 彼らがつなぐ者なのかと思ったとき感じた違和感はなんだろう。 未来はゴキブリのものと言われても、こうまでイヤな感じはしないだろうに。 クローンである同じ肉体。デジタル処理され、注入されたまったく同じ記憶と感情反応。 多分、そこ、まったく同じであるという部分が反発を呼ぶのだ。 宇宙レベルでは人類という種の一個体でしかないとしても、主観的にはかけがえのない自分という自己認識が崩されてしまうから。 取りかえ可能な同じ存在が地に充つるなら、それはもはや人の世界ではないだろう。 ☆ 若山照彦だっけ、世界で初めてマウスのクローンを作った人のインタビューが「月刊プレイボーイ」に載っていた。 クローン研究の第一人者である彼が、人のクローンに反対する理由として、「倫理上どうこうではなく、科学的にこんなあやふやな技術で人を作ってはいけない」と言って いた。 ・どんどんクローンを作っていけば、遺伝的に同じになるわけではない。兄弟同士をかけ合わせて20代もたったマウスと、クローンマウス同士とでは、後者の方が薬品耐性などで大きな差を示すことがある。 ・クローンマウスは、骨盤の肥大という異常を抱えている。何代かクローンを重ねていくと誕生にこぎ着けることさえ、できないようになる。 ・原理は分かって、技術も伝授されて、それでもクローンの成功率は5パーセント止まりなんですよ。 クローンに関しては、世界のトップに立つ人が言うのだ。 「マウスや牛のクローンができたからといって安易に人に応用していくべきではない」 ☆ アルが成長していて、嬉しい。自分の限界を知り、人類の一員として「“人類”なんてもんは不完全のシンボルみたいなもんだ!!」「だからその不完全を埋めようと、絶えずあがき続けて進化しているのが人類なんだよ!!」と言い切る彼には、最初登場した時の傲慢さはない。 ☆ ブルーメン・ヨーロッパサイボーグ特殊部隊“ドラッケン”の隊長ヨハン・ホルストが、またかっこいいんですよね。ミーハー心がうずく。 「神に祈るな!心くじける!」「過去を思うな!!」「敵は前にあり!!」というリーダーとしての檄もかっこいいし。「俺の友の顔で……声で……それ以上、俺の名を呼ぶな……」という悲痛な声もいい。 ARMSを憎んでいるといいながら涼に向かって「自分たちの意志を貫き通せ!!」と手向けの言葉を贈るところも、くらくらする。………ふと思った。後から行く者が、先にいる者にきちんと向かってあげること、それこそが礼儀なのかもしれない。 ☆ しばしば現れるようになったアリス。やはり、彼女が全ての鍵を握る“母”のような気がする。 |