欠片 2001.9
〜10


心身共に色々あったので、やすらぎを求めてネット上を彷徨っておりました。
本も読みました。一般出版、同人誌の別無く。
そうして、思ったことや感じたことのうち、半端な部分――
「どのページにも、ちょっとなー」という欠片を此処にまとめていこうと思います。
当然整理もできてない部分です。そもそも整理整頓は苦手だし…
なので、扉を付けました。
ネガの煩悩の形を見てやろうという物好き、いえ奇特な方はこちらへ
そんなもん見たくないから戻りたいという方はこちらへ
どんな煩悩なんだ?とお迷いの方は以下の駄文を参考にどうぞ。
3月分の「欠片」はページを改めました。
5月分の欠片は、こちらです。
6月分の『欠片』は、こちらです。
8月分の『欠片』は、こちらです。


欠片  「医療費の自己負担」について       2001.10.22  
少し前に朝日新聞が「医療費の自己負担」について投稿を募集していました。

その中で、さいたま市の30才主婦の方の投稿が取り上げられていました。
一見もっともな意見です。多分こう思っている人は大勢居るのでしょう。
はっきりこのように主張できるこの人は、多分信念を持って努力している人なのでしょう。
もしかしたら、身近に不摂生な人が居て、迷惑をかけられているのかもしれない、とも思いました。
正直に、自分の信念を述べたんだろうこの人が悪いわけではない……

●まず自己管理を
 4日付のテーマ特集にひとこと。健康保険の自己負担引き上げで慢性病患者にしわ寄せがいくのは、仕方がないと思います。先天的に病のある方は本人の責任ではありませんが、後天的な病は、遺伝という要素もありますが、本人の不摂生によるものが大きいのではないでしょうか。
 病気にならないように自分の身体を知る努力をし、養生を怠らなかったか。風邪で年に数回しか医者にかからない人は、自己コントロールができているのです。自分の身体、命にタイする責任ある行動を怠ったことを棚に上げ、国や行政に不満を持つのはおかしい。
 「自己責任」という言葉が浸透してきているのに、その意味が十分に理解されていないことに、がく然としました。

でも、私も正直に言うなら、最初これを読んだとき、かっとなりました。
少し時間をおいて、悲しくなってきました。
人間健康でなければ生きている意味はないのでしょうか。
病気の人間は、金を出さなければ生きていくのを許されないのでしょうか。
自己責任というのは、こういうものだったのでしょうか。
なんだか「健康な人間」と「病気の人間」は絶対的に違う種類の人間であると言われているようで…
―――そう、世界で、日本で、いま進められている事態のように。
「持てる者」と「持たざる者」。「北の豊かな国」と「南の貧しい国」
人は、くっきりと二分されてしまっている。
そうして、持てる者は、自分の優位を当然のことと思っている。
石原議員(敢えて言うなら、石原慎太郎の息子)が、しれっと
「ぼくの家は、普通ですよ」「今の日本に、ホントに貧乏で困ってる人なんていませんよ」と言い放ったように。


私は、病気は、「隕石に当たるようなもの」だと思ってます。
どこでどうなるか予測が付かないのが人の身体というものでしょう。
それは、確かにはちゃめちゃな生活態度の人もいることでしょう。
そういう人に
が、特別に不摂生をしなくても、思いも寄らない病気になることもあると思います。
そんなとき、かっては、確かにどうしょうもなかったかもしれません。
けれど、人は、そんな仲間にも救いの手を差し伸べようとしてきたとも思うのです。
少なくとも、自分が飢えの瀬戸際にたたされているのでなければ。


自己コントロールと言っても、その時点では、大丈夫だと思っていたことが後から病気のきっかけになることもある。ムリをしてると自覚してても、止むに止まれぬということもあるし。
私が腰を痛めたのも、そりゃ無茶をしたのが原因ではありますが、その時点では大丈夫と思ってした作業がきっかけだったし。


それに……
>先天的に病のある方は本人の責任ではありませんが
本当に、これで許されるのでしょうか。
こういう論は、いずれ「先天的に病のある方」には責任はないが、
「先天的に病のある方」を生まないようにしなかった親には責任があると進むのではないでしょうか。

ゲノム解読とともに、優生思想がまたぞろ出てくるのではないか、とてもとても、危うさを感じる。
私は、どう転んでも処分される方だと思うから、とても怖い。
投稿した主婦の人は、そんな不安は感じないのだろうか。
今現在健康だからといって、年とともに体も弱るかもしれないとは思わないのだろうか。
自分は健康であっても、家族が…とか想像しないんだろうか。


欠片       2001.10.06
戦争が始まってしまった……
2001年10月8日【体育の日】は、アメリカが戦争を始めた日になってしまった。
戦争自体は、そりゃ地球のあちこちでずっと続いてたのだけど、アメリカが加わったというのは……
取り返しがつかないような気がする。


相変わらず小泉首相が吼えている……
なんか、自衛隊が気の毒になってきた……
だって、「少々の犠牲は仕方ない」なんて使い捨てだと言ってるのと同じ。
犠牲になることで、日本は何が得られると言うのだろう。
同じ言葉を彼は自分の息子達に言えるんだろうか。
自衛隊員の誰一人だって、犠牲になっても仕方がない子と思って育ててやしないだろうに。
隊員を預かる上司だって、誰も自分の部下は犠牲にしていいなんて思わないだろうに。
旧日本軍とかの一部は知らず、
普通、上司ってのは戦闘に出る時だって、部下を無事連れ帰ることを考えるもんじゃないのか。

何より首相ってのは、日本国民の生命・財産をできうる限り守る義務があるはずなのに。
で、自衛隊員だって日本国民で、「死んでこい」と言う権利なんて彼にあるんだろうか。
死んでもいい日本国民と死んではいけない日本国民があるんだろうか。
教育改革審議会の答申で、
「エリートは一握りでいい、言われたとおり働く従順な労働者もいるんだ」と言っていたように?

宮内勝典氏のサイト「海亀通信」で、日米の権力者(政治家とも言う)について言ってる事に同感。
>むろん、特権階級の子として生まれたこと、
 二世であることは、なんら、かれらの罪ではない。
 だが、そうした特権にあぐらをかいて、
 なんの痛みも、悲しみも、弱者の苦しみも知らないまま
 権力の座についてしまうことは、犯罪に等しいと思う。
http://pws.prserv.net/umigame/diary12.htm


欠片    2001.9.30
☆ 今日の妄想は硬軟取り混ぜ〜    

顰蹙を買いそうだけど。
ネタ元は☆ 硬の方2以外は今週の週刊文春です。


☆ 軟の方1
もうすぐ封切りの『トゥームレイダー』の主演女優、アンジェリーナ・ジョリー。
バイセクシュアルで国連親善大使で、現在は2まわり年上の夫にぞっこんだそうな。
彼女のグラビア写真を見た。さすがに鍛えたたボディで、黒いジーンズに黒いTシャツ。
黒い髪に黒い目。額を出して、髪は首の後ろでまとめて……
はい、もう想像がつきますよね。誰かに似てるなーと妄想を逞しくしちゃったんです。

いや、顔は似てませんよ、でもねぇ。
彼女、おなかに文字のタトゥーを入れてるんだけど、そのフレーズがねぇ。
「私を癒すものは同時に私を破壊する。私を破壊するものは同時に私を癒す」
〜〜これで、私に妄想するなって方が無理じゃありません事?


☆ 硬の方1
掲示板で、しおるさんにお返事書いてて気がついたこと。

「わんことにゃんこでは、ずいぶん違うけど、
何かをくれるという点では同じだという気がします。
そんなのは感傷だ、人間の方が大事だと言う人もいるけど、
確かに犬や猫が居なくても生きていけるかもしれないけど、
人間しかいない社会ってすごく味気ないと思います」
ここまで書いて思ったんだわ。報復だと叫ぶ人たち、特にオジサンたちへの違和感の理由。
(オジサンと言っても、年齢じゃないですよ。思考のパターンがオジサンな人のことです)

「アメリカにつくか、テロ側につくか」
ブッシュ大統領の演説に表れてるように、自分につかない者は敵だと断定できる感性なんだ。
一歩譲ってブッシュ大統領の場合は仕方がないとしよう。
国家をまとめようというときは、問題は単純化した方が効率的なのだから。
けれど、日本政府までがそうである必要があるだろうか。
アメリカ同時多発テロは、確かにすさまじい被害を与えたが、
(そして被害を受けた当事者やその近しい人がテロの犯人を恨むのは無理もないが)
躊躇いや、相手にも訳があったのではないかと想像する余地を持たない。
そんなもの持ってたら、勝てないと言う。
勝って、勝ち抜いて、自分とは違う者を殲滅して――そんなにも、同種のみで固まって、何を目指そうと言うのだろう……

社民党議員のHPでの発言が責められていた。
「アメリカがこんなにも恨まれるのはなぜかも考えて」と言ったのに対し、
「アメリカ国家の失政のつけをアメリカ国民に払わせるつもりか」と非難していた。
でも、これって、アフガンの人々こそ言いたい事じゃないだろうか。
まだしもアメリカ国民の場合、アメリカ国民であることの権利を享受してきた。
俗な言葉で言えば、いい目をしてきたわけだ。それは私たち日本国民の場合も同様で。
たまたま日本に生まれたというだけで、健康で文化的な生活というものを当然のごとく営んできたわけだ。
けれどアフガンの人たちは、何ら国家の恩恵を受けることなく、ただその国に生まれたというだけで戦争に巻き込まれようとしている。
彼らは、テロの犠牲者達と、何の責任もないという点において等価であるのだ。
どの国に生を受けたか――それは本当にたまたまのことなのだ。日本に生まれたか、アフガンで生まれたか、それともアメリカで生まれたかなんてのは。
けれどオジサンは、そんなことは思わない。自分は恵まれて当然と思っている。
もし自分がアフガンに生まれていたら、とはこれっぽっちも考えない。
だけでなく、もし戦争が起こったら、自国の(アメリカや日本の)10代以下の人たちがどんな青春期を過ごさなければならないかも考えてない。としか思えない。


☆ 硬の方2
又聞きなんですけど。
教科書事務担当の先生から聞いた話なので、でまかせではないと思います。

来年が教科書改訂の年であることは、結構知られていると思う。「中学校歴史・公民」教科書(扶桑社発行)の件で国際問題にまでなったから。
で、4年生国語の教科書として採択された中に東京書籍もあったわけで。
東京書籍は、教科書会社としては伝統もあり、採択されても何の不思議もない。

で、ここは、もうずーっと『一つの花』(今西祐行:作)を文学教材として採用していた。
それがどうしたわけか、新教科書では無くなって、ノン・フィクションに替わったという。
結構なことだ。ルーチン化している教材を買えるのはいいことだと思ったのだが、
続く言葉に飛び上がってしまった。
「でも、そのノン・フィクションて『アフガンの子ども達は今』ってのよ」
ひええーー
「それも最後の文章は『戦争で、この子達の村はなくなってしまいました』なのよ」
ひえええーーー
それって、シャレにならん。
来年の教科書だから、もう印刷も済んでるのよね。
た、多分長倉洋海のルポよね。
また詳しいことが分かったら、報告します。

【参考】
長倉洋海(ながくら・ひろみ)
http://www.asiawave.co.jp/NAGAKURA1.htm

長倉氏は有名だけど、私は、この本によって、アフガンを知ったのですよ。
『戦士たちの貌 アフガニスタン断章』 南条 直子 著(径書房、1988)
著者は、1988.10地雷を踏んで死亡したのだけど。
でも、彼女の思いはつながっていっている。
http://www.netlaputa.ne.jp/~asarin/wwwbbs/bbs/9856.html
http://www.netlaputa.ne.jp/~asarin/wwwbbs/bbs/11674.html
http://www.oki-htu.or.jp/kyouiku-c/video.html
☆ 訂正                                   2001.10.3

『一つの花』と交代したのは、ノン・フィクションではありませんでした。

小林豊(こばやし・ゆたか) さんのお話でした。絵も小林豊です。
http://ehon.nu/juvenile/YutakaKobayashi.html
『せかいいちうつくしいぼくの村』(ポプラ社)
http://www.rakuda.ne.jp/ehon/1nen/sekaiiti.html
こちらのサイトの感想文でも、こんな感想が…
>ラストの「この年の冬、村は戦争で破壊され、今はもうありません」が衝撃的でした。
http://www.geocities.co.jp/SweetHome/7935/sensou.htm#sensou1

しかも、最終ページ、無くなってしまった村の跡地
夕日ばかりが美しい中、立ちつくすヤモの一家の影に
この一行が被さるのです。

無断引用です。ごめんなさい。

●"せかいいちうつくしいぼくの村"のもうひとつの物語
『ぼくの村にサーカスがきた』は、以下のサイトで読むことができます。
http://www.caravan.net/ct/book/circus/circus1.html
興味を持たれた方は、どうぞ。


欠片   2001.9.24
☆ 個の値打ちと氏と育ちと   

ぼーと妄想していて、引っかかっていることをずるずる引きずり出してみた。
karinさんに借りた栗本薫の同人誌『FULL HOUSE』に根っこがありそうだと気づく。
ずっと気になってたんだけど、見直す暇がなかったからねぇ。

『FULL HOUSE』『FULL HOUSE2』『凶星』―――うーんうーん。
面白かったし――栗本薫の心意気にはすっごく共感するんだけど―――
栗本薫作品に抱いてしまった違和感は、どうしても拭えなかった。
最初は、こうじゃなかったのよね。
今、作品が手元にないから、うろ覚えだけど、デビューの頃は。
スターを見つめるちんぴらの視点で、書かれていた。
そう、「怪物」という雑誌に載った短編のように。

それが途中から、「選ばれてある者の恍惚と不安」にいってしまった。
ちゃんと説得力持って、書かれてはいるのよね。確かに、すごい書き手だわ。

ただ――私が、感情移入できないだけ。
そう言う意味では私は、既によき読者とは言えないのだろう。

でも、なぜこんなにも、栗本薫作品の中で脇役たちは「ナリスは特別」というのだろう。
脇役どころか、イシュトバーンでさえ。あれだけ誇り高かった男が、傲岸不羈であった彼の精神がパロの伝統とやらに屈服してしまうのは切ない。
それは確かに、身1つでのし上がったイシュトバーンには、パロの文化を体現したようなナリスに対抗する術もないだろう。
でも、だからといって、劣等感の塊になる必要なんかないではないか。
ナリスは寄ってたかって仕込まれたのだけど、イシュトバーンは自力で諸々を身につけたのだ。
それは、誇ってもいいことじゃないか。

………ここらへんは完全に私怨だわね。ほほ。
伝統には、それだけの値打ちがあると理解しているつもりでも、すごく逆撫でされるらしい。
それなりのプライドっつーやつを。思えば、「お嬢様ブーム」とやらもそうだったなぁ。
あれとどう違う?

―――これって、ある意味、近親憎悪かもしれない。
だって、こう言う口の下で、私はシャンクスをヒト以上の存在に祭り上げてしまってるんだもの(笑)
その潔さと傍迷惑さと底の深さと。およそヒトの範疇から外れた存在。
まるで――荒ぶる神。

でも、多分、こうやって仰ぎ見る者に対しても、シャンクスは苛立ったりはしないと思う。
そうしかできない者には「仕様がねえな」で、そう言う奴だですますだろう。
それはシャンクスにとって単なる事実で、軽蔑するとか、バカにするとかいう問題ではないのだ。

けれど、シャンクスにそう思われることに、ベンは耐えられるか?
耐えられないだろう。
たださえ、というか、無意味にプライドのある(言い換えると羞恥心てんこ盛り)の彼にとって、
シャンクスに軽蔑されるとか失望されるとかは、最大の恐怖なんじゃないか――と私は想像するわけだ。

「しなくてはならない」に縛られてきたベンにとって、何者にも縛られないシャンクスは、憧れであると同時に新しい規範で。
「自由であらねばならない」と決意して自由であろうとする無様さ―――
そこに、シャンクスが時々癇癪を起こす理由もあるのではないだろうか。
本質として「そうである」者を責めたりはしない。けれど、「人の顔色をうかがう」ことはイヤなんだ。
特にベンがそうするのはイヤなんじゃないか。その程度にはベンはシャンクスにとって大きな存在なんじゃないか――つー具合に妄想してた。ふぅっ。

なのに――どーして、できあがったものが、アレ?
も、もーちょっとかっこいいお頭と副船長を目指そう。いくら現実はそんなもんったって。
乙女とまではいかなくても、せめてもう少し腐女子のニーズに沿ったものにしないと…
楽しいのは、私だけかも。今晩一晩寝かせてから、アップするかどうか決めよう(^^ゞ

欠片   2001.9.18
☆ 妄想竹林・増殖中

ふと、シャンクスの親ってどんなかなと気になりだした。
もこもこもこと妄想を湧かせてみたのだけど、私には、アレを真っ当に育てるだけの大人を想像=創造できないことが分かったので、ギブアップ。
……きっと、海が陸に貸してくれた命なのよ、アレは。
でも、じゃ育てたのは誰なのか、いくらシャンクスでも、赤ん坊や幼児の頃には世話してくれる人が必要だし、粗雑に扱われていたのでは、あそこまで副を惹きつけないような気がするし。うーん。
貴族とか商人とかのお坊ちゃんとかではないような気はする。どっちかというと、スラムとかそーいうとこの出のような気がする。
副とは正反対。副の親のイメージは或る程度固まってるのね。
家名とか、権力とかが何より大事で自分ばかりが貧乏くじを引いてると思っている人。
我が子でも、自分より大事にされるなんて許せないと思っている人。
息子は、自分の所有物で、自分のための道具だと思っている人。
でないと、副のあの性格の説明がつかないでしょー。

シャンクスは、多分副とは逆。大事にされてきたんだと思う。
それは贅沢とかじゃなくて。たとえ、貧乏であっても、大切にされてきたんじゃないだろうか。

がらがら海賊団(現スパーキング・ロケッツ)の本を読みながら、もーそー竹を育てた。
シャンクスって、人間もケダモノでありナマモノであること、ケダモノは始末に負えなくてナマモノは腐るってことよく知ってるような気がする。
つまり、人も食べて出す生き物で、いずれは衰えていくもので、死ねば腐る。で、生の最初と最後には、否応なく他人の手を必要とする存在だということを理屈ではなく、実感として分かってる……ような気がする。
だから、助けられることも助けることも、ごく当たり前のこととして受け容れられるんだ。それが凄いと思う。
「助ける」事は、けっこうできるけど、「助けられる」事を普通に受け容れるのは難しい。
腕に覚えのある人なら、尚のこと。
助けられる立場に立つなんて、自分の存在を否定されたような気になるんじゃないかなぁ。

欠片 2001.9.17
☆ 武田泰淳という頭脳

25年も前に亡くなったのだけど、武田泰淳という作家が居た。
本郷の寺の住職の息子として生まれ、終生中国文学に関心を持ち続けた人だった。
『十三妹(しいさんめい)』などの
この夏、漢詩に惹かれて、『史記』絡みで、この人の全集も覗いてみた。
『武田泰淳全集』筑摩書房
図書館というのは、ありがたいものである。
その15巻にコンピュータに関する一文が載っていた。
「I.B.M.Review」という雑誌の昭和39年9月号に掲載されたものらしい。
題して、「コンピュータと経営者についての妄想と予感」

新しいプログラム・ライブラリーの整理が始まっている。(中略)
機械頭脳から機械頭脳への血液にたよらない「遺伝」がはじめられている。(中略)
経営者の趣味や理解力、スキ。キライの如何にかかわらず、「コンピュータのある風景」が、実業、実務、まごうことなき現実の一部として、はじまってしまっているのです。
「……山小屋にいてコンピュータのことを考えているこの私の贅沢は、はたして神によって許されているのだろうか」
「人間が機械を支配する――この事実は、むしろ、コンピュータのしゅつげんによって、ますます明らかにされつつあるというのが私の判断です。
ただし、その『支配する』という意味が、まったく新しくなりつつあるというだけの話でありましょう」

昭和39年といえば、こんな年だ。
http://www.jtnet.ad.jp/WWW/JT/Culture/museum/eventJan96/1964.html
東京オリンピックが開かれ、山陽新幹線が開通した年。
海外旅行も自由化されて、けれど1ドル=360円のレート下では、気軽に海外へ行けるものではなかった年。
多分コンピュータも、まだパンチ式に毛が生えた程度のものだったろう。
シャープ・ヒストリーに、こんな記載がある。
 コンピュータについて全くの素人たちが、一から勉強を始め、
 1964年(昭和39年)、ついに世界初のオールトランジスタ・ダイオードによる
 電子式卓上計算機〈CS‐10A〉が完成しました。
 価格は535,000円
http://www.sharp.co.jp/corporate/history/text/p34.htm
そんな時代に、コンピュータの可能性を思い、
なおかつ、それを使うのは人間であると断言し、
「……山小屋にいてコンピュータのことを考えているこの私の贅沢」と振り返る、
そんな作家が居たということ――
人の知性について、思わずには居られない。


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