2002年 |
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心に残った言葉 | コメント |
舌津 智之 『どうにもとまらない歌謡曲』 ―七〇年代のジェンダー 晶文社 \1900 264ページ 2002.11.10発行 |
著者は、アメリカ文学、ジェンダー批評を専攻している人とか。 実は、私も取り上げられている歌謡曲のほとんどとは言わないけれどかなりの歌詞を記憶している……古いAMラジオだけが便りだった私でも、なのだから、それだけ強力に伝播していったか想像がつきますよね。「歌謡曲とは、おそらく、戦後の日本における最強の思想である」という筆者の主張は裏付けられたと言えるだろう。多分、その影響下にあったのは、男女を問わない。というか、かえった男性の方により強く働きかけたような気がする。――私は、矢沢永吉の歌を聴いて、ジャスミン・ティーを飲んでみた男を知っている。(実は私の弟(^_^;)紅茶すら飲んだことがないような田舎の高校生が、わざわざデパートまで出向き、ジャスミン・ティーを購入して淹れてみたのだ――淹れさせられたのは私だけど)そのエネルギーは、単にミーハーと言って片づけられないような気がします。今の日本人の思想とまでは言わずとも、嗜好・感性の根っこはここにあるような。(あと少女漫画にも) ・我々は、彼女のシングルヒットの全てをいつでもいつまでも、繰り返し聴きながら、永遠を再発見する(略)とあるアメリカ人作家がいみじくも述懐したように、歌の薔薇と記憶の薔薇だけは、枯れずに残る薔薇なのである。 ・歌謡曲とは、基本的に音声として存在するが、その始まりとしてある文学への郷愁を消し難く宿している。 ・『声の文化と文字の文化』を書いたウォルター・J・オングは、「書くことと読むことは、一人でする行動である」がゆえに、「こころを、精力的で、内面的で、個人的な思考に引き込む」と述べている。実のところ、書くことと読むことは、はっきり区別できる行為ではない。何かを書くということは、自らが(自分の書いた文面の)最初の読み手になるということでもある。 その意味で、書くことは読むことの一種であり、(他者との対話を求めるはずの)手紙さえ、自分と向き合うために書かれることがある。 |
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小谷野敦 『聖母のいない国』 青土社 \1900 247ページ 2002.5.10発行 |
「アメリカ文学に恋愛を学ぶ」という帯の惹句に、はじめ?でした。タイトルの意味は、一応「プロテスタントが主流のカナダ・アメリカ文学には聖母マリア信仰はあまり見られない』ということらしいのだけど。 まーずばずば言うてます。特に『風とともに去りぬ』や『赤毛のアン』では。「古今東西、女性読者に人気のある作品はすべて大衆文学扱いされやすい」とか、「男にとって魅力的な女は、いずれにせよ得だ、という真実」とか、すっぱりと(^.^) でも、『トム・ソーヤーの冒険』あたりになると、かなーり… ・大人たちは、時にいたずらをするような「元気のいい」男の子を愛するのである。 うーん、確かになぁ、だって「しつけの良い利口な男の子」なんて「よくできた娘さん」と変わらないもの。自分の似姿なんて見たくないわよね…と、己を顧みてみる。 「多くの人々には、確固たる自己などないのだし、実現すべき自己などないのである」と言うのはちょっとばかし言い過ぎだろうけど、多分、グッド・グッド・ボーイとグッド・バッド・ボーイの問題は、メンズ・リブにとても関わってくるような気がする。男も、抑圧されているわけだしね。 レズリー・フィードラー『アメリカ小説における愛と死』新潮社からの引用がおもしろかった。・「グッド・グッド・ボーイとグッド・バッド・ボーイ、たとえば、シド・ソーヤー[トムの弟]とトムの相違は何なのだろうか?グッド・グッド・ボーイは母親がかれにやって欲しいと望んでいるふりをしていることをやる、つまり、親の言うことをよく聞き、従うのであり、それに対して、グッド・バッド・ボーイは母が本当に彼にやって欲しいと思っていることをやるのである。つまり、嘘をついて、親の胸を少し痛ませ、許してもらうのである」また、読んでみよっと♪ ・戦争というものがどう見えるか、あたかも中立的な観察者が存在するかのように言い立てるのは愚かなことで、兵士や下士官が見る戦争と将校が見る戦争が同じであるはずがない。 ・確信犯は批判しにくいという問題である。偽善者を批判するのはたやすい。しかしミラーや谷崎には、偽善的なところがない。「たとえ神から見放されても私は自分を信じる」と言った谷崎である。(中略)価値観を共有していない者を批判することは、自分の倫理観の主張にしかならない。 |
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昨年の記録は、こちらです。
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