蜻蛉
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「ふっくせんちょーぉー」 さっきからシャンクスの呼ぶ声が喧しいが、 もうしばらくは保つだろうとベンは無視することに決めた。 ハートマークこそ無いものの、間延びしたひらがなでシャンクスが呼ぶ時というのは、 ろくな用でないのだ。 何か新しい悪ふざけを思いついたか、 副船長(彼曰く「からかい甲斐のある」)を引っかけるネタを見つけたか。 あまり放っておくと怒り出すが、あの声のトーンなら、まだ大丈夫だ。 冷静に判断していた(つまり、行くつもりではあったわけだ――) 彼は、いきなり背中に激突してきた物体に不意をつかれてしまった。 ドアが開くのと、ベンの背中に柔らかいものがぶつかるのとほとんど同時だった。 いくら狭い部屋とはいえ、たいそう危険である。 あまつさえ、その物体は文句まで宣(のたま)った。 「なにぐずぐずしてんだよぉ」 なにってアンタのやるべき仕事を代わりにしてるんだがと いつも通り返してやろうと思ったのだが、この場合返事は要らなかったらしい。 口を開く間もなく、一気に甲板まで引っ張られた。 ………… |
| 「これは」 さすがにベンも息をのんだ。 「なっなっ、すげえだろー」 シャンクスの得意そうな声も、無理はない。 現象としては、ごく当たり前の事物。秋になればありふれて見られるものだ。 ただ、これほどの数を、それも海の上で見たことはない。 「へええー」 「こいつぁ、凄えや」 美的感覚からは縁遠いような海賊達さえ、驚きの声を上げている。 実際それは、ちょっとしたもんだった。 見事なまでの蜻蛉の大群。空一面に舞うそれは、夕焼けの空を埋め尽くすようだ。 炎の色の空を背景にして、くっきりと際だつ独特のシルエット。 その群は、陸に向かって真っ直ぐに進んでいた。 |
| 八の月に入って間もない、よく晴れた夕暮れ。 赤髪海賊団の船は、陸まで、あと半日という距離にいた。 少し前に戦闘があったので、ベンは近くの港に入るよう指示したのだ。 被害はまったくと言っていいほど無かった。 圧勝と言っていい結果ではあったが。 念のために物資を補給した方がいいという副船長の提案を、 渡りに船と支持した船長がいたもので、 船は、今一番近い港に向かっている。 真上を向いて、蜻蛉の大群に見とれてた新米船員がベンを認めて、寄ってくる。 「副船長、どうして海の上に赤トンボなんているんです?」 どうして俺に聞くかなと思いつつ、副船長は律儀に答えてやる。 「赤トンボは、アキアカネSympetrum frequens とも言うように 平地の池で卵から孵って、赤くなるまで山で過ごすんだ」 「なんで、わざわざ山へ行くんです?副船長」 「さあなぁ、暑さを避けて高い山へ行くんだとも言われているが、定説はないらしい」 「んなこた、決まってるじゃん。同じトコにずーっといると飽きるからだよ」 お頭じゃあるまいし――という全員が感じた突っ込みは、口から出ることはなかった。 「陸の方へ進んでいたということは、この近くの水場のある島で夏を越してたんだろう」 |
| 「あれえ?」 いきなり素っ頓狂な声が挙がる。 シャンクスだった。 「なぁ、あれだけ色が違うけど、あれもトンボ?」 指さす方を見れば、真っ黒な蜻蛉が一匹。 「あれは、ハグロトンボのオスだ」 真っ黒い羽根。信じられないほど細い胴体は、日の光をはじくような金緑色だ。 生き物は思えないほど金属的な光沢を帯びて、ハグロトンボの 「ハグロトンボは警戒心が強く、なかなか近づけない種類だ。 幼虫時代を渓流の流れの中で過ごすタイプだから、 かなり水が豊かな島が近くにあるということだな」 「それってつまり、上手い酒があるってことだな?」 シャンクスから勢い込んだ声がかかり、周りにいた者たちがいっせいにベンの方を見る。 「わくわく」という擬音がその頭上に見えるようだった。 それも、でかい太ゴチック体で。 副船長としては、彼らの期待に応えてやらねばならない…… 「…多分な」 酒を造れるくらいゆとりがある島なら…続く言葉は聞いちゃいねえ。 海賊どもは歓声を上げて、マストの方に走った。 真っ先に島を見つけようというのだろう。 見つけたからとて、いきなり上陸するわけにもいかないのだが。 太陽は、しだいに西の海へと沈んでいく。 あれほどいたとんぼも、姿を消してしまった。 その代わりのように、西の空は赤く染まる。 今日が終わるのだ。 違う方からは、樽を引っ張る音がする。 トンボ襲来のおかげで、なし崩しに今日の作業が終わったのをこれ幸いと、 今夜の酒宴の用意を始めた連中だ。 きっちりシャンクスも混ざっている。ひときわ陽気な彼の声が聞こえる。 まぁ、“どうせやること”が少し早まるだけだ。 副船長は目を瞑ることにした。 |
| 今夜の酒盛りは、開始が早かったわりにはペースが遅かった。 少し前の戦闘が後を引くほど繊細な連中とも思えなかったが、 一方的すぎる勝利だっただけに、あまり気分が良くないのかも知れない。 ギターやフィドル担当も、やけに沈んだバラッドばかりをつま弾く。
「たった一人、でも、いてくれるかなぁ」 まだ若い見習いがぼそっと呟く。 一瞬座は静まり、続いてほとんどの面々が盛大に吹き出した。 「おまえなぁ、百年早いわ、そーゆー思案は」 「だって…」 爪をかむ仕草がまだ幼い。 ランプの明かりのもと、赤くなった鼻は、酒のせいばかりではないらしかった。 「なんだよ、泣き上戸かよ、おまえ」 「だいたい、あいつらがバカなんだよ。 あれっぽっちの手勢で、赤髪海賊団に向かってこようなんて」 「そうそう、己の実力を知らないヤツは、己の命を差し出さなきゃな」 からかう声に、咎める調子はなかった。 まだ青い“仲間”の気を紛らせようとしている。 「“赤髪”が“最期の時の友”になったんだぜぇ。 めでたいくらいのもんだ」 ベンは思わず周りを見回したが、シャンクスは既に近くにはいなかった。 気にするような人間ではないと分かっているものの、ほっとする自分に苦笑する。 “最期の時の友”―――それは、海賊にとって己を殺す者の謂。 この世に別れを告げる最後の瞬間に、己が目に映る者――― おそらくは妻ではなく、子どもでもなく、輩(ともがら)でさえなく、 己を斬り捨てる敵こそが、“最期の時の友”となるのだ。 「どうせなら、お頭に殺られたらサイコーだよな」 まだ若い一人が、うっとりと言う。 バカ言うなとたしなめる声は、………無かった。 全員の面に、夢見るような表情が浮かぶ。 彼らは知っている。 彼らのお頭の“剣”を。 彼らに破滅願望などはない。生き汚いのが、海賊の身上だ。 それでも――― この世におさらばする刻に見るものが、赤髪の剣技であるなら……… 赤髪に真っ向から斬り結んでもらえるのなら………恨みも未練も残るまい。 ……………… ……………… ……………… 濃密な沈黙。 「それにゃ、ただ一つ問題があるぜ」 にやにや笑いながらその場の空気を変えたのは、ルウだった。 「お頭に叩っ斬られるためには、赤髪海賊団を抜けなきゃいけないんだぜ?」 「出るか?ああん?」 いっせいに首が真横に振られた。ぶんぶんと! 「だろーな」 ルウは、人の悪い笑いを浮かべたまま、 ちらりとベンを見やって断定する。 「ま、どっちにしろ、お頭の相手するにゃお前ら全員力不足だな」 「そんなぁっ」「俺達だってがんばってんですよぉ」 ブーイングはあったものの、全員あっさり納得して、酒盛りは続けられた。 音楽も、ずいぶん明るいものになっている。 |
| ベンはそっと立ち上がった。 たいして飲んでもないくせに、酒が身体の芯にコタえる気がする。 海賊となって初めて知った言葉がこだまする。 “最期の時の友” 無頼と片づけられている海賊達が、そんなにも“死”を真っ当に考えていることに驚かされた。 ―――自分が与えてきた死は、相手の顔など見えないそれであったのに。 あの頃は自分がどんな死を迎えようと、気にもならなかったのに。 死は、自分のものも他人のものも、ひとしなみに単なる“死”であったのに。 今は――― シャンクスを“最期の時の友”とする者にすら、嫉妬してしまう自分がいる。 「よぉ、どこ行くんだ?」 船倉への階段の途中に、いきなりシャンクスがいた。 酒瓶を1本握って、座り込んでいる。 ベンの返事も待たず、シャツを引っ張る。 シャンクスを見下ろす形で、ベンは階段に座らされてしまった。 「飲めよ、貯蔵庫からいただいてきたんだ」 機嫌良く瓶を勧める。にこにこと待たれては、飲まないわけにはいかない。 ベンは一口だけあおって瓶を返した。 返そうとした。 その腕は、抱え込まれた。 捻るようにマントの中。 「まーた、ロクでもないこと考えてるだろ?ベン・ベックマン」 ……………… ……………… ……………… 「まったくおまえって、ちょっと目を離すとロクなこと考えないよな」 「忘れてしまいたいんだ、何もかも。 ただ、あんたのことだけ覚えてて あんたと今のことだけ考えて、 あんたのように……」 黒いマントから伸びて、つ、と髪に触れる手。 重量を感じさせない柔らかな手。 「ムリすんなよ」 ――静かな声。この男は、こんな声も出せるのだ。 「ムリに忘れなくてもいいさ。 忘れられないって事は、 まだそれがおまえに必要だって事だよ」 「ムリに忘れようとしなくたって、要らなくなりゃー忘れるって」 にまっと悪巧みする猫の顔になって、シャンクスは囁く。 「だいじょーぶ。俺、おまえの過去にヤキモチなんか焼かないから」 「…それも、淋しい気がするが」 「じゃー、盛大に焼いてやろーか?」 ぱふんとベンの太股の上に頭をのっける。 シャンクスが盛大にヤキモチを焼く――小火ではすみそうになかった。 「ったく、おまえって、すーぐ考え込むのなー」 「ま、おまえって頑丈だから」 「悩むにも体力がいるからな〜俺にゃームリ」 けらけらと白い喉仏を見せて笑う。 「あんた……かりにも赤髪海賊団の頭が…」 額を押さえるベンに、シャンクスは口をとがらせる。 「なんでぇ、ほめてやってんじゃん」 息がかかるほど近づいて、 「もう黙っててくれ」と聞こえないほどの声で囁くと、 シャンクスの背中がびくんとはねる。 「てめ…っ、きたねーぞ」 二人きりの時、ベンの声は武器になるのを知っていて。 「使えるものは使う。それが海賊――だろ?」 月明かりにも、ほんのり赤い耳殻の中、 息を吹きかけてやると、ベンのお頭はくっくっと嗤う。 「分かってきたじゃん、てめーも」 「どんくらい分かってきたか、見てやるよ。来いよ」 ――言われるまでもなかった。 掬い上げるようにベンを見る……今は、今だけは、 ベンだけを見る、ベンのお頭。 誰の“最期の時の友”になろうと、 今この時、シャンクスの傍にいるのは自分だけだ。 |
| 2001.9.7 |
☆ 赤トンボはわりとポピュラーなんですが、ハグロトンボは…
?と首をひねった方は、以下のサイトでご覧下さい。
http://hb8.seikyou.ne.jp/home/tadachi/gi18.htm
トンボの習性についても、色々勉強させていただきました。
http://symnet.ishikawa-c.ac.jp/EssaySF.html
☆ 「ベンを見上げるシャンクス」
実は、開口様からいただいたイラストのシャンクスなんです。
☆ 文中に使ったバラッドの詞は、
宅島徳光氏の『雲ながるる果てに』(旺文社文庫)から
引用させていただきました。
宅島徳光氏は、太平洋戦争で戦没した学徒のお一人です。
よもや50年後こんなオタク事に引っ張り出されるとは…
想像もしなかったでしょうね。
☆ “最期の時の友”に関しては嘘っぱちです。
曾野綾子氏の「昼寝するお化け」で見つけた言葉です。
アルジェリアでゲリラに殺されたトラピスト修道院の院長が
残した言葉だそうです。
「私の最期の時の友人。その意味も知らず私を殺す人。
(中略)私はあなたの中にも神の顔を見る」