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心に残った言葉 | コメント |
河合隼雄 鷲田清一 『臨床とことば』 心理学と哲学のあわいに探る臨床の知 TBSブリタニカ \1800 237ページ 2003.2.17発行 |
ひとにとって「言葉」とは何なのか? という問いが立てられていて、読まずにはいられない。私にとって「言葉」とは何であるのか……考えずにはいられないように。 ……現段階で言うなら、「言葉」は世界を認識する手段。そして世界から私を守ってくれる武器。癒しの杖。同時に呪縛でもある。「言葉」がなければ、この迷いも無かったろうと思えば。それでも、「言葉」から離れられない以上、せめてより快適な使い勝手のいいアイテムにとならしていきたいのだけど。はてさて――未熟者だからねぇ。いくつになっても「言葉」に振り回されるばっかりだ(^^; ・ミシェル・セールは皮膚と皮膚が合わさるところに魂があるといいました。僕らが思うに、それは考えているところにある。足を組んでいたら太ももにある。目をぐあーとあけたら、目にある。唇をかみしめたら、唇にある。魂というのは、からだの折り合わさった、自分と自分が接触するところ、そこにあって、たえず体のいろんなところに移動しているんだと。(鷲田) ・(昔は)一人ひとりの人間をちゃんちゃんと形をつけて、それを組み合わせて社会の秩序というのを構成されていたんですね。それが昔の方法でした。今はそれをやめよう、と。個人というのは、すごい可能性を持っているから、できる限り生かそうでないか(中略)そういう意味では、僕はものすごく面白くなったと思っています。ものすごく面白くなったと言うことは、それによる大混乱が生じるということを知っていないとね。(河合) ・他人の想いにふれて、それをじぶんの理解の枠におさめようとしないということ。そのことでひとは他者としての他者の存在にはじめて接することになる。ということは、他者の理解においては、同じ想いになることではなく、じぶんにはとても了解しがたいその想いを、否定するのではなくそれでも了解しようとおもうこと、つまり、その分かろうとする姿勢にこそ他者はときに応えるということである。そして相手には、その分かろうとする姿勢にこそ他者はときに応えるということである。(鷲田) こちらで表紙データや目次を参照できます。 http://www.tbsb.co.jp/tbsb/x5books/_ISBNfolder/ISBN_03200/03202_rinshoutokotoba/rinshoutokotoba.html |
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鈴木謙介 『暴走するインターネット』 ―ネット社会に何が起きているか イースト・プレス \1500 237ページ 2002.9.30発行 |
いや、アニメちっくな表紙(西島大介)に思わず手に取ったのだけど、なかなかハードな内容でした。 著者は“社会システム理論を専攻する若手気鋭の社会学者で、宮台真司氏の公式ウェブサイト「MIYADAI.com」http://www.miyadai.com/の管理人charlieとしてネットではよく知られた存在”だそうです。 上から組織されたものではなく「私的なまま公的に認めれる」空間として捉えるならネットは新しい可能性を持っていると思う。ただその空間が即公的なものにつながれ、結局生産性向上とか能率アップとかに直結するなら……それは「幸せ」にはつながらないだろう。 人は、インターネットであれ現実の労働の場であれ、「承認」を求めずにはいられない――悲しくもありますが。だからこそ「承認」を求めるあまり、やたらなネット礼賛に乗ってはいけないと思うのですよね。太平洋戦争時、それまで家の中での無報酬の家事労働しか知らなかった女性達が外で認められる場として大政翼賛的な活動にのめり込んでいった前例もあるしね。 ・私たちがたとえ「踊らされている」のだとしても、その「踊り方」そのものは私たちが作り出しているものだ ・オンラインのコミュニケーションに耽溺する人にとって、そこでの出来事はどのように「有意味」なのだろうか。何が、現実のコミュニケーションよりも彼にとって意味あるものだと思わせているのだろう。 一口にいえばそれは、「承認される関係」とでもいうべきものだ。 ・視点として重要なのは、労働の現場にいても人はただ働くための道具なのではなく、何らかの意志を持ち、その動機付け次第で頑張りもすれば怠けもする存在なのだということだろう。(ホーソーン実験) ・政治思想というと非常に難しい話のように聞こえるが、結局の所そこで問題になるのは、「みんなが幸せになれるかどうか」ということだ。政治というのはそもそも、ひとりではできないことをなんとかしてみんなでやるために始まったわけだが、みんなでひとつのことを成し遂げていくためには、みんながそれに同意する必要がある。みんなで協力するからには、みんなが幸せにならないと意味がないはずだ、というのが政治思想の根本にはある。 |
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黒崎政男 『デジタルを哲学する』 時代のテンポに翻弄される〈私〉 PHP新書 \660 190ページ 2002.9.27発行 |
デジタルとタイトルに付いた本の惹句が「人間はなぜ〈モノ〉に愛着を覚えるのか」(^_^;)うーん、意味深。 でも、私が本を買うときの事を思えば〈モノ〉という感覚はよく理解できる。だって、ネットにテキストデータはあるからといっても、それが(小説でもエッセイでイラストでも)1冊の本にまとまればやはり欲しくなるもの。 好きなモノなら。データと本という形とは別のものなの。だから、本当に好きなものなら新書や文庫よりハードカバーが欲しくなる。重くて高くてかさばっても(^_^;)ただし、こういう嗜好自体オ○クだって自覚はあるわよ。 しかし、二進法を考案したのは哲学者ライプニッツなのか。それも300年も前(1696)に。「日常的使用のためではなく、深い思索のために考案されたもの」というライプニッツの注が、またドキドキするじゃありませんか。 もしかして、コンピュータの出現を予想していた?著者は「このような哲学者の〈思想〉が、300年の歳月を経て〈実現化〉する。深い思索にテクノロジーは300年かかって追いついたのである」と言ってます。 ・重要なのは、あるメディアが有する資料的特質に即した情報(ソフト)の追求であって、決して他メディアからの、(例えばマルチメディアへの)無頓着な〈移植〉ではないのである。 ・現代の哲学は、テキスト研究へと逃げ込むのではなく、自分の素手で〈現在〉へとのりだし、そこで格闘せざるを得ないと感じられる。今や、唯一の羅針盤となり得るのは、私自身の興味と関心のみである。私の関心は今、何へと向かい、何への興味が今わき起こるのか。それをまずあるがままに観察することから、思索を構築していくほかはないと考えている。 ・遺伝子が同じで、外から見ればそっくりだからと言って〈同じ〉人間が二人いるわけではない。ある他者の〈かけがえのなさ〉はどんな技術をもってしても乗り越えることができない。その交流は再現することができない一回限りの出来事なのである。 |
昨年の記録は、こちらです。
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